原点の物語
おはようございます、中阪です
今日で震災から24年が過ぎたんですね
あれから24年。早かった
僕が48なので
ちょうど半分。今日からそうですね
震災後の人生のが長くなってくるわけです
震災の影響で人生が変わったという人は多いと思います
もしかしたら、あなたもその一人じゃないですか?
僕もそうなんです
この日、僕の人生は大きく変わりました。
でも、今になって思うのは、
うん
「よかった」です。
もし、震災がなければ。。。
今みたいな幸せは
つかみ損なっていたかもしれないからです。
これからお話しするのは
なぜ、僕がここ春日野道で
聚鳳というお店をやっているのか
その原点とも言える僕の物語です
聞いていただけると、幸いです
【質問】中華と言えば何を連想しますか?八宝菜?酢豚?はたまたフカヒレスープ?
ひとによって様々だと思います
でもうちに来て
僕があなたに食べてほしいのは
焼きそば なんです
「なんで焼きそば!?」
ほかにもメニューいっぱいあるやろうに!
なんでそんな
どこにでもあるようなもんを看板に持ってくるのか?
そこにはこんな思いがあるんです
今日、阪神淡路大震災から24年が過ぎました
僕もまたあの震災で大きく生き方が変わった1人
当時僕はアパレル会社に勤めていました
中国の寧波というところで駐在員として
工場の生産と品質管理をまかされてたんです
一日に何十万枚という商品が出来上がってきて
それを見て回るわけですからまぁ~大変
納期が迫ると夜通しフル稼働するので
こっちも徹夜です
それでも仕事は大変だったけど
とてもやりがいのある仕事でした
1.17日
いつも通り出勤して
いつも通り本社からの電話をうけて
でもこの日にかかってくる電話の内容は
いつも通りじゃありませんでした
「神戸が大変なことになってるぞ」
とは言え、当時そこは中国の片田舎
まだ田んぼ耕すのに水牛が登場してるような場所
日本のテレビなんか映りません
僕が耳にするのは
国際電話で短いやりとりの中
すさまじく増えてくる死者の数
「こらあかん、お前一回帰ってこい」
上司の一言で僕は
とにかく日本に帰ることになったんです
会社からいただいた物資を乗せ
バンにスクーターを入れて
交通情報を聞きながら
山手から神戸に入る
もうすぐ神戸だというのに
山側ではまだパチンコ屋が開いてました
「なんや別にたいしたことないんかな」
そう思いながらトンネルを抜けた先
広がってた光景は今でも目に焼き付いてます
「これが神戸?これが日本?」
そこから先はもう道路がぐちゃぐちゃで車も通れません
そこでようやくスクーターを積んでた訳が
よくわかりました
変わり果てた街並みを見ながら
到着した我が家
その時に僕をみて母が発した一言
「なんで帰ってきたん!」
ほんといろんな気持ちが詰まってたんやと思います
そこでぼくはほんの数日
みんなと共に生活しました
商店街の前会長のお店の駐車場
そこにみんなが集まって
家にある食材や物資を持ち寄って
助け合う姿
数日後中国に帰った後も
ずっとそのことを考えてました
(このままでほんまええんやろか)
中国から帰ってきた僕は
父に自分の気持ちをぶつけました
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