今日とってもうれしいことがありました
何十年になるでしょう
フェイスブックで繋がって
今日小学校中学校の同級生が
お店で集まってくれました
それこそ
卒業してから会ってない
そんな子もいました
子といっても
みんなもう40過ぎてるんですよね
でも
そう
「子」なんですよ
みんなもうけっこうな役職についてたり
今回なんかほとんどが社長なんですよ
でもね
こうして集まると
一気にその頃にタイムスリップするんですよね
みんなその頃のまんま!
いっぱい笑いました
それぞれの生活で
そりゃ~いろんなこともあるんですが
オープンにさらけだして
話ができる
仲間ってすばらしい!
そう感じた一日でした
いっぱい元気もらって
今日もまた頑張れそうです♪
ありがとうみんな
さっきのつづき
小学校に入ると
一年生から
元町まで電車通学
日本で一番危険と言われた
阪神春日野道駅
特急電車の風に
ふきとばされそうになりながら
通っていました
(みんなホームでめっちゃ注意するので
阪神電車一度も事故なかったそうです)
お店が忙しいときには
商店街で
靴屋のおばちゃんのところに行って
相手してもらって飴ちゃんもらって
今思えば営業妨害やね(笑)
そんな感じに
いつもみんなで助け合ってるこの商店街が
私は大好きでした
大学を卒業して、アパレル会社に就職
なんとなく後継ぎは弟という流れで
私は中国で駐在員として働いていました
でもそんな時!あの震災がありました
急いで帰ってきて神戸の惨状を目にしました
でもそれよりも今なお印象にのこってるのは
みんなで食材や家財道具、
家の倉庫を居住スペースに提供したりと
力を合わせて強く生きる
商店街のみんなの姿
「私もこの商店街の一員になりたい」
そう思い、会社を辞め
2年間の修業を経て、
聚鳳の一員になりました
そして今年の2月
父が亡くなって
私が2代目店主となりました
必死のパッチでなんとかやってきて
半年以上がすぎ
今ようやく
ふりむく余裕もでてきた
お店に対する見方
お客様に対する見方
家族に対する見方
周りの人との接し方
自分をとりまく周りの人々
色んな事がガラッと変わりました
それでも聚鳳は今日も
変わらずここにあります
大切な真実
35年という歳月
お客様と共に歩み、いろんな思い
つながりを共に分かち合って
今の私たちというものがあります
平成26年○月○日
開店当初の気持ちで
今日も「いらっしゃい」の声が
聚鳳にこだまします
新生、聚鳳のブログ
とても明るく、
今の聚鳳にピッタリな感じになったブログ
さらに愛着がわいて、
これから更新するのが楽しみです
さてさて、そんなことで今日は
聚鳳について
少し書いてみようと思います
聚鳳 しゅうほう
昭和52年12月、父はここ春日野道で
念願のお店を持ちました
当時灘に祖父母が経営する中華料理屋
【秀宝園】から読みをもらい
人が集まるという意味の 【聚】
鳥の王、不死鳥の鳳凰の 【鳳】
そうして聚鳳はできました
東明閣で働いていた父
その姿を僕は知りませんが
いろんなところで
すごい料理人だったことを聞きます
その頃私たちは野田阪神の長屋に住んでて
ちいさかったこともあって
その頃の父は記憶にありません
僕が起きるよりも早く出勤し
寝静まってだいぶしてから帰ってきて
そんな生活
毎日が超忙しかったんだと思います
裏ボーナスの封筒が
分厚くて立った
そんなうらやましい時代です(笑)
父が独立して
私たちがここ春日野道に来たのは幼稚園の時
それからず~~っとこの商店街で育ってきました
華僑幼稚園に通ってた私たち
昼のいそがしい時間に
バスのお迎えが帰ってきます
お店一段落して
母が急いでバスのところにいくと
もうバスは行っちゃって
また幼稚園にトンボ帰り
そこに見えてるのに
「お~~い」と手をふっても
運転手さんに気付いてもらえず
タクシーでまた幼稚園にお迎えにいったとか
ほどなくして弟のシンジが生まれて
3人兄弟
当時僕らの背の高さ程ある乳母車に
シンジを乗せて
「寝るまで帰ってきたらあかんで」と
商店街を妹と二人で往復してたのが
なつかしいです
お休みに日の楽しみは
お弁当持って六甲山
それから有馬に行って
ニジマス釣りをして焼いて食べて
大衆広場で劇をしてるのを見たり
そうそう
ニジマスに池のそばの木に
はじめてアリジゴクを見て
ひたすらアリをいれてた
そんな無邪気で残酷で幼少時代(笑)
長いとブログさんに言われたので
いったんここで切ります~
(つづく)